カスタマーレビュー
おすすめ度:
学問における勇気とは?
(2008-10-01)
ソーカル事件については批判もあるが、彼らが行動しなかったならば、あの裸の王様たちはいまだに大通りを得意げに練り歩いていたかもしれない(しかもさらに増殖していたかもしれない)。「お前たちは裸の王様だ!」と言う勇気を持つことを、私たちは常に忘れないでいたい。
ポストモダンのフィルタリングとしては優秀
(2008-09-23)
この本などが起こした現象はのちに「ソーカル事件」と呼ばれ、日本においては80年代のポストモダン・ブームを収束させる原動力となった。
哲学専攻の評者としては、「文献として大丈夫な本」と「デタラメーな本」とが、こ
の『知の欺瞞』によってうまくフィルタリングされていて助かる。
この本によって指摘された学者は、せっかく優秀な理論を出していた人もいた(リオタールやボードリヤール)のに大きな打撃を受けることとなった。
この本を読む際は、フランス人の言説は、「ちょっと変わったこと言った者勝ち」であることを差し引いて読むとよりリアリティがあるw
評者が強調して言いたいことは、
ソーカルが言っているように、この本はポストモダン思想そのものを貶める目的はないということと、批判されている学者がただちにアホではないということである。
また、中途半端でザコい理系が文系を中傷する際にもわりとよく用いられる本である。
この本の唯一にして最大の欠点は、この本の内容自体にあるのではなく、この本の内容が理解できない程度のレベルの人間でも、たやすく「現代思想」を中傷することが出来る余地を生み出したことではないか。
簡単に言うと、
この本を使えば、ザコい理系や無学な人でも簡単に現代思想を叩けますよ。
ということです。
その点では、この本の鉄板具合というか、威力は大きいと思う。
パロディから生まれた真実
(2008-09-11)
用語をその都度説明し、どこがおかしいか書いてあるため、その文章の大げささや、無内容・間違いがわかるようになっていた。
分野が広く、すべてを説明しきれないのは書いてあったが、おもったより多くの知識量に驚く。
エピローグは、読み応えがあり、裸の王様になった原因、「日本にも分かりやすく」という注意があるように、欧米の話で、身近には感じられない政治の話があった。
ソーカル論文はお見事な文章である。これほど中身のない文章で、難解で、笑えるのは、エピローグまで読んだからだろう。
見事なまでの「中庸」的論理の書。おフランスかぶれの解毒剤として!
(2008-07-09)
最初、タレブの「まぐれ」や、ドーキンズの「悪魔につかえる牧師」などで論及されていた部分を読み、超大笑い。てっきり、それ系の本かと思いきや、至極まとも、穏当で、きわめてためになると同時に、若干の知的感動(魂の高揚、なんて表現はおセンチ過ぎるか)をも受けた本であった。
一度読み始めると、なかなか巻を措くことができず、二日で読了してしまった。
ソーカルとブリクモンはここで、「ポストモダン」的あるいはヤンキー的に、現代フランスの知の巨人たちをこき下ろしている訳ではない。
端緒となったソーカルのわるふざけ論文が巻き起こしたその後の騒動に懲りたのかもしれないが、少なくとも本書の文書は、きわめて紳士的といおうか、大人的といおうか、逆に、もう少しハメを外しても良いのでは? と読書中に感じることもたびたびであった。
本書では、ラカン、クリステヴァ、ドゥルーズなど、著名な思想家に各1章ずつを割り振り、物理学や数学のきちんとした知識も無くいい加減に専門用語を使用しているのではないか、と問題となっているテキストを実際に引用してみせ、丁寧に論じている(あるいは引用されたテキストを読めばたいていの読者が自ずと了解できるよう仕向けている)他に、認識的相対主義やカオス、ゲーデルの定理や集合論などについて、おのおの章を割き集中的に論じている。
特に、まとめとなるべきエピローグの章では、ポストモダンと左翼思想の関係や、今後の展望についてコンパクト且つ適切に論述しており―はっきり言って、名も無い(失礼!)二人の物理学者が人文科学分野でこれほどのレベルの議論ができる(テキストを書ける)とは、驚きである。それにひきかえ、超一流と目される哲学者や社会学者、心理学者、言語学者たちが、異分野(数学や物理学)においてどれほどの貢献をなし得るかーーテキストを残し得るか、あるいは残して来たか、を考えてみると、本書に引用された無惨なテキストの瓦礫を読むまでもなく…人文科学分野の劣勢は明らかである。
かくいう私も、大学時代、フランス教大寺院の前庭でかくれんぼしたクチの一人であり、恥ずかしい告白をするならば、「ヒルベルト空間のスピノル」という、本屋さんの理工書の棚で見つけた一冊の本の背表紙の文句にいたく感動し、同名の小説をモノにせんと空想をたくましくしていた青春の一時期もあった...
その後、「ヒルベルト」というのは実在していた偉大な数学者の名前であることは判ったが、「スピノル」というのは何を意味しているのか、未だ闇の中だ。
個人的には、ドゥルーズでもガタリでもクリステヴァでも、わたしと同じように、ただ詩的感受性を働かせ、異世界の不可思議な名詞の響きに、酔っていただけなのだとおもう。
そう思えば、他に芸も無く、社会で身を立てるすべも無い文学少年/少女の、見果てぬ妄想だったといえるのではないか、ポストモダンというものは??
ここら辺の感性は、おそらく、学生時代、サルトルやマルクスやランボーではなく、ニュートンやアインシュタインやダーウィンを知的ヒーローとして育ったであろう理工系の学者には、あるいは無縁のものなのかもしれない。
しかし、今現在、例えば日本の大学院で、現代フランス文学や思想を専攻している学者のタマゴたちは、本書を読んでどう思うだろう? お先真っ暗にはならないだろうか? あるいは、柄谷行人や浅田彰らに入れあげていた文壇の方々は、どのように苦々しい思いを噛み締めているのであろうか。ちょっと不憫ではあるが...
私はと言えば、学生時代から二十年間も「積ん読」状態だった「アンチ・オイディプス論」その他を、古本屋へ叩き売る心の錠前が外され、爽快の一言に尽きる!
分からないですねえ…
(2008-05-17)
僕は数険の準一級を取って今は一級の勉強をしていますが、別にポストモダンの用語に違和感は感じませんよ。むしろ、そのような読み替えをするのかと、新鮮な刺激を受けます。
どちらかといえば、ソーカルの物言いのほうが…というより、原典からの引用の仕方が、批判している当のポストモダン以上にポストモダン的で、ポストモダンが分かっている人から見ると失笑ものでしょう。
一つ言うならば、ポストモダンが分からないというのは、知性の問題ではなく、問題意識の問題ということを理解すべきですね。特に、ソーカルのような態度では、分かるはずもありません。
最後に、ポストモダンを正面から批判するのであれば、テリー・イーグルトンを読むべきでしょう。
おすすめ度:
学問における勇気とは?
ソーカル事件については批判もあるが、彼らが行動しなかったならば、あの裸の王様たちはいまだに大通りを得意げに練り歩いていたかもしれない(しかもさらに増殖していたかもしれない)。「お前たちは裸の王様だ!」と言う勇気を持つことを、私たちは常に忘れないでいたい。
ポストモダンのフィルタリングとしては優秀
この本などが起こした現象はのちに「ソーカル事件」と呼ばれ、日本においては80年代のポストモダン・ブームを収束させる原動力となった。
哲学専攻の評者としては、「文献として大丈夫な本」と「デタラメーな本」とが、こ
の『知の欺瞞』によってうまくフィルタリングされていて助かる。
この本によって指摘された学者は、せっかく優秀な理論を出していた人もいた(リオタールやボードリヤール)のに大きな打撃を受けることとなった。
この本を読む際は、フランス人の言説は、「ちょっと変わったこと言った者勝ち」であることを差し引いて読むとよりリアリティがあるw
評者が強調して言いたいことは、
ソーカルが言っているように、この本はポストモダン思想そのものを貶める目的はないということと、批判されている学者がただちにアホではないということである。
また、中途半端でザコい理系が文系を中傷する際にもわりとよく用いられる本である。
この本の唯一にして最大の欠点は、この本の内容自体にあるのではなく、この本の内容が理解できない程度のレベルの人間でも、たやすく「現代思想」を中傷することが出来る余地を生み出したことではないか。
簡単に言うと、
この本を使えば、ザコい理系や無学な人でも簡単に現代思想を叩けますよ。
ということです。
その点では、この本の鉄板具合というか、威力は大きいと思う。
パロディから生まれた真実
用語をその都度説明し、どこがおかしいか書いてあるため、その文章の大げささや、無内容・間違いがわかるようになっていた。
分野が広く、すべてを説明しきれないのは書いてあったが、おもったより多くの知識量に驚く。
エピローグは、読み応えがあり、裸の王様になった原因、「日本にも分かりやすく」という注意があるように、欧米の話で、身近には感じられない政治の話があった。
ソーカル論文はお見事な文章である。これほど中身のない文章で、難解で、笑えるのは、エピローグまで読んだからだろう。
見事なまでの「中庸」的論理の書。おフランスかぶれの解毒剤として!
最初、タレブの「まぐれ」や、ドーキンズの「悪魔につかえる牧師」などで論及されていた部分を読み、超大笑い。てっきり、それ系の本かと思いきや、至極まとも、穏当で、きわめてためになると同時に、若干の知的感動(魂の高揚、なんて表現はおセンチ過ぎるか)をも受けた本であった。
一度読み始めると、なかなか巻を措くことができず、二日で読了してしまった。
ソーカルとブリクモンはここで、「ポストモダン」的あるいはヤンキー的に、現代フランスの知の巨人たちをこき下ろしている訳ではない。
端緒となったソーカルのわるふざけ論文が巻き起こしたその後の騒動に懲りたのかもしれないが、少なくとも本書の文書は、きわめて紳士的といおうか、大人的といおうか、逆に、もう少しハメを外しても良いのでは? と読書中に感じることもたびたびであった。
本書では、ラカン、クリステヴァ、ドゥルーズなど、著名な思想家に各1章ずつを割り振り、物理学や数学のきちんとした知識も無くいい加減に専門用語を使用しているのではないか、と問題となっているテキストを実際に引用してみせ、丁寧に論じている(あるいは引用されたテキストを読めばたいていの読者が自ずと了解できるよう仕向けている)他に、認識的相対主義やカオス、ゲーデルの定理や集合論などについて、おのおの章を割き集中的に論じている。
特に、まとめとなるべきエピローグの章では、ポストモダンと左翼思想の関係や、今後の展望についてコンパクト且つ適切に論述しており―はっきり言って、名も無い(失礼!)二人の物理学者が人文科学分野でこれほどのレベルの議論ができる(テキストを書ける)とは、驚きである。それにひきかえ、超一流と目される哲学者や社会学者、心理学者、言語学者たちが、異分野(数学や物理学)においてどれほどの貢献をなし得るかーーテキストを残し得るか、あるいは残して来たか、を考えてみると、本書に引用された無惨なテキストの瓦礫を読むまでもなく…人文科学分野の劣勢は明らかである。
かくいう私も、大学時代、フランス教大寺院の前庭でかくれんぼしたクチの一人であり、恥ずかしい告白をするならば、「ヒルベルト空間のスピノル」という、本屋さんの理工書の棚で見つけた一冊の本の背表紙の文句にいたく感動し、同名の小説をモノにせんと空想をたくましくしていた青春の一時期もあった...
その後、「ヒルベルト」というのは実在していた偉大な数学者の名前であることは判ったが、「スピノル」というのは何を意味しているのか、未だ闇の中だ。
個人的には、ドゥルーズでもガタリでもクリステヴァでも、わたしと同じように、ただ詩的感受性を働かせ、異世界の不可思議な名詞の響きに、酔っていただけなのだとおもう。
そう思えば、他に芸も無く、社会で身を立てるすべも無い文学少年/少女の、見果てぬ妄想だったといえるのではないか、ポストモダンというものは??
ここら辺の感性は、おそらく、学生時代、サルトルやマルクスやランボーではなく、ニュートンやアインシュタインやダーウィンを知的ヒーローとして育ったであろう理工系の学者には、あるいは無縁のものなのかもしれない。
しかし、今現在、例えば日本の大学院で、現代フランス文学や思想を専攻している学者のタマゴたちは、本書を読んでどう思うだろう? お先真っ暗にはならないだろうか? あるいは、柄谷行人や浅田彰らに入れあげていた文壇の方々は、どのように苦々しい思いを噛み締めているのであろうか。ちょっと不憫ではあるが...
私はと言えば、学生時代から二十年間も「積ん読」状態だった「アンチ・オイディプス論」その他を、古本屋へ叩き売る心の錠前が外され、爽快の一言に尽きる!
分からないですねえ…
僕は数険の準一級を取って今は一級の勉強をしていますが、別にポストモダンの用語に違和感は感じませんよ。むしろ、そのような読み替えをするのかと、新鮮な刺激を受けます。
どちらかといえば、ソーカルの物言いのほうが…というより、原典からの引用の仕方が、批判している当のポストモダン以上にポストモダン的で、ポストモダンが分かっている人から見ると失笑ものでしょう。
一つ言うならば、ポストモダンが分からないというのは、知性の問題ではなく、問題意識の問題ということを理解すべきですね。特に、ソーカルのような態度では、分かるはずもありません。
最後に、ポストモダンを正面から批判するのであれば、テリー・イーグルトンを読むべきでしょう。
