カスタマーレビュー
おすすめ度:
むしけら
(2008-08-09)
こういう輩には去勢手術が必要不可欠。頭が悪すぎるのでまともなルートでは更正の見込みはない。土下座屋とかか殴られ屋向きの人相なのでそちらの道を勧める。または人体実験用の素体とかもおススメ。拷問の研究素体に適している。考えると誰にも更正の道は残されている
三船敏郎版『無法松の一生』に、松が「木戸をつかれる」場面がある(p143参照)
(2008-07-31)
宮崎は冒頭から丸山真男による「無法者の類型」(『現代政治の思想と行動』所収)に言及し、その有効性を確認する(p7)。ただし丸山が批判として述べたことを、そっくり肯定に裏返して…。これは丸山批判としても、前代未聞ではないか?
私としても宮崎が「はずれ者」の生き方に一定の評価を与え、そこから「市民社会」を批判しようとしている、くらいのことは思っていた。しかしこの本で宮崎がやっているのは、そんな生易しいことではない。日本社会をまるごとヤクザ的原理によって再解釈し、その原理を理念にまで高めるのだ。ここまで思い切った主張を、私は寡聞にして知らない。そして議論の随処から、言葉に説得的な力を獲得するために宮崎がいかに知を鍛え上げてきたかが窺える(私としては、特に第6章「義理と人情、顔と腹」に賛嘆の念を禁じえない)。
但し宮崎の「市民社会」批判は、いわゆる68年の思想とは微妙に異なる。丸山政治学のポジネガを反転させるからといって、宮崎は外部とか他者とか周縁とかアブジェクシオンとか永久革命とか象徴界の崩壊とかを持ち出したりしない。それは「昭和二十年代(中略)にガキだった私から見て、いま昭和初年代の社会と昭和五十年代の社会と、どちらが身近に感じられるか。圧倒的に昭和初年代の社会のほうなのである」(p61)という、宮崎の出自も含めた、身体に埋め込まれた記憶に関わる問題ではないか。
突飛な印象論かも知れないが、私は宮崎が、宮本常一だとか小沢昭一だとか、あるいは寺山修司だとか唐十郎だとか、そういう人々と共通の地面に立っていると感じる。また団塊にやや先立つ世代に属し、早熟にも京都での高校時代にすでに共産党に入党したこと、早大時代には共産党系のゲバルト組織の指揮をとって全共闘と対立したことなどの経歴も見逃せないだろう。
ヤクザと日本というタイトルは意味深
(2008-05-08)
ヤクザの起源と役割について、中世からの変化を中心によくまとまっている。
要約すれば、以前は制外の集団を束ねる非公式パワーとして機能したものが、
近代以降、各種集団の解体と国家権力への体制化に伴い、自治機能を廃した
利権集団となっていく様子が描かれる。
驚いたのは戦後、高度成長期あたりまでは、前者の形態が依然として残り、
公権力や資本とも協力関係にあったという点。
親分さんが一日警察署長なんてやってたのだ。
筆者は任侠と暴力団はまったく異質なものだと結論付けるものの、同時に彼らが
本質的に持っていた“特定集団における自治機能”にも一抹の期待は残す。
まあ神戸芸能社など若干美化しすぎなきらいもあるが、中身の充実した一冊だ。
余談だが、極道モノには縁の無かった自分だが、最終章の山口組史はとても読み物
として面白かった。
次は「現代」のやくざ論を期待する
(2008-02-16)
やくざという存在が日本の近代化といかに分かちがたく結びついていたか。
下層労働現場における「仕切り」役として、「芝居小屋」などの悪所の顔役として、末端庶民への社会権力として、そして時には理不尽な支配に対する反権力の暴力装置として、著者の主張するところでは「昭和20年代ころ」までその存在は一般社会と地続きであったとされる。
「親方・子方」関係や「義理と人情」の価値体系から語られる日本社会の深層に根ざした存在としてのやくざ論はスリリングだし、「自治としての談合」という切り口などは談合を否定する人々も是非知っておくべき歴史的経緯だろう。
ただ、高度成長を経て大きな変化を遂げた日本社会の中で、やくざという存在もまた変質を余儀なくされたはずであるが、その点について本書は多くを語らない。バブルを経て「偽装請負」などの言葉に象徴される不安定雇用がはびこる現在、社会経済の裏面ではいまだ彼らが蠢いているはずなのだが、やはりやくざを語るには時間と距離が必要なのだろうか。
日本の近現代政治史/経済史/社会史におけるヤクザの“貢献”について思う書
(2008-02-16)
今から35年ほど前、ある暴力団が私の実家のそばに事務所を構えた日のことが忘れられません。10人ほどの組員が事務所の前にずらりと並び、道行く人々に「転居の挨拶」をしているのです。その場所は小学校低学年だった私の学校からの家路にあたっていたのですが、その場の異様な雰囲気に圧されて、わざわざ迂回して帰宅したことをよく憶えています。
その後、その組員たちの姿を見かけることはたびたびありましたが、いたって温和な笑顔をたたえて、住人として町に溶け込んでしまっていることに奇異な思いを抱いたものです。私が聞かされた暴力団というものは、地域社会に容れざるものであるはずだったのに。
本書「ヤクザと日本」は、江戸期にまで言及しながら、近代のヤクザ史をみつめた労作ともいえる一冊で、この本を読みながら、昭和40年代に私が身近に見たヤクザの社会的位置づけがなんとなく分かったような気がしました。
本書によれば、日本の資本主義経済活動にとってヤクザは、周縁部に位置する労働力を非周縁部へと仲介する存在としてなくてはならないものであったということです。彼らの存在がなければ、非定期の労働力の供給も覚束なかっただろうし、日本の急速な近代化もこれほど進むことはなかったかもしれないという気がしてきます。
また芸能の世界とヤクザの関係も、そもそも芸能というものが周縁部出身者によって行なわれたものである歴史的経緯にまでさかのぼり、これまた非周縁部への仲介業者としてのヤクザの大きな役割について詳述して見せています。
これを読むと、まさに仲介業者=ヤクザの<社会的貢献>の度合いが非常に大きなものであったのだなぁという印象を強く持つほどです。
日本の近現代史をヤクザの活動を通してみるという本書の試みは、大変興味深いものであり、読んで損はない一冊だといえます。
おすすめ度:
むしけら
こういう輩には去勢手術が必要不可欠。頭が悪すぎるのでまともなルートでは更正の見込みはない。土下座屋とかか殴られ屋向きの人相なのでそちらの道を勧める。または人体実験用の素体とかもおススメ。拷問の研究素体に適している。考えると誰にも更正の道は残されている
三船敏郎版『無法松の一生』に、松が「木戸をつかれる」場面がある(p143参照)
宮崎は冒頭から丸山真男による「無法者の類型」(『現代政治の思想と行動』所収)に言及し、その有効性を確認する(p7)。ただし丸山が批判として述べたことを、そっくり肯定に裏返して…。これは丸山批判としても、前代未聞ではないか?
私としても宮崎が「はずれ者」の生き方に一定の評価を与え、そこから「市民社会」を批判しようとしている、くらいのことは思っていた。しかしこの本で宮崎がやっているのは、そんな生易しいことではない。日本社会をまるごとヤクザ的原理によって再解釈し、その原理を理念にまで高めるのだ。ここまで思い切った主張を、私は寡聞にして知らない。そして議論の随処から、言葉に説得的な力を獲得するために宮崎がいかに知を鍛え上げてきたかが窺える(私としては、特に第6章「義理と人情、顔と腹」に賛嘆の念を禁じえない)。
但し宮崎の「市民社会」批判は、いわゆる68年の思想とは微妙に異なる。丸山政治学のポジネガを反転させるからといって、宮崎は外部とか他者とか周縁とかアブジェクシオンとか永久革命とか象徴界の崩壊とかを持ち出したりしない。それは「昭和二十年代(中略)にガキだった私から見て、いま昭和初年代の社会と昭和五十年代の社会と、どちらが身近に感じられるか。圧倒的に昭和初年代の社会のほうなのである」(p61)という、宮崎の出自も含めた、身体に埋め込まれた記憶に関わる問題ではないか。
突飛な印象論かも知れないが、私は宮崎が、宮本常一だとか小沢昭一だとか、あるいは寺山修司だとか唐十郎だとか、そういう人々と共通の地面に立っていると感じる。また団塊にやや先立つ世代に属し、早熟にも京都での高校時代にすでに共産党に入党したこと、早大時代には共産党系のゲバルト組織の指揮をとって全共闘と対立したことなどの経歴も見逃せないだろう。
ヤクザと日本というタイトルは意味深
ヤクザの起源と役割について、中世からの変化を中心によくまとまっている。
要約すれば、以前は制外の集団を束ねる非公式パワーとして機能したものが、
近代以降、各種集団の解体と国家権力への体制化に伴い、自治機能を廃した
利権集団となっていく様子が描かれる。
驚いたのは戦後、高度成長期あたりまでは、前者の形態が依然として残り、
公権力や資本とも協力関係にあったという点。
親分さんが一日警察署長なんてやってたのだ。
筆者は任侠と暴力団はまったく異質なものだと結論付けるものの、同時に彼らが
本質的に持っていた“特定集団における自治機能”にも一抹の期待は残す。
まあ神戸芸能社など若干美化しすぎなきらいもあるが、中身の充実した一冊だ。
余談だが、極道モノには縁の無かった自分だが、最終章の山口組史はとても読み物
として面白かった。
次は「現代」のやくざ論を期待する
やくざという存在が日本の近代化といかに分かちがたく結びついていたか。
下層労働現場における「仕切り」役として、「芝居小屋」などの悪所の顔役として、末端庶民への社会権力として、そして時には理不尽な支配に対する反権力の暴力装置として、著者の主張するところでは「昭和20年代ころ」までその存在は一般社会と地続きであったとされる。
「親方・子方」関係や「義理と人情」の価値体系から語られる日本社会の深層に根ざした存在としてのやくざ論はスリリングだし、「自治としての談合」という切り口などは談合を否定する人々も是非知っておくべき歴史的経緯だろう。
ただ、高度成長を経て大きな変化を遂げた日本社会の中で、やくざという存在もまた変質を余儀なくされたはずであるが、その点について本書は多くを語らない。バブルを経て「偽装請負」などの言葉に象徴される不安定雇用がはびこる現在、社会経済の裏面ではいまだ彼らが蠢いているはずなのだが、やはりやくざを語るには時間と距離が必要なのだろうか。
日本の近現代政治史/経済史/社会史におけるヤクザの“貢献”について思う書
今から35年ほど前、ある暴力団が私の実家のそばに事務所を構えた日のことが忘れられません。10人ほどの組員が事務所の前にずらりと並び、道行く人々に「転居の挨拶」をしているのです。その場所は小学校低学年だった私の学校からの家路にあたっていたのですが、その場の異様な雰囲気に圧されて、わざわざ迂回して帰宅したことをよく憶えています。
その後、その組員たちの姿を見かけることはたびたびありましたが、いたって温和な笑顔をたたえて、住人として町に溶け込んでしまっていることに奇異な思いを抱いたものです。私が聞かされた暴力団というものは、地域社会に容れざるものであるはずだったのに。
本書「ヤクザと日本」は、江戸期にまで言及しながら、近代のヤクザ史をみつめた労作ともいえる一冊で、この本を読みながら、昭和40年代に私が身近に見たヤクザの社会的位置づけがなんとなく分かったような気がしました。
本書によれば、日本の資本主義経済活動にとってヤクザは、周縁部に位置する労働力を非周縁部へと仲介する存在としてなくてはならないものであったということです。彼らの存在がなければ、非定期の労働力の供給も覚束なかっただろうし、日本の急速な近代化もこれほど進むことはなかったかもしれないという気がしてきます。
また芸能の世界とヤクザの関係も、そもそも芸能というものが周縁部出身者によって行なわれたものである歴史的経緯にまでさかのぼり、これまた非周縁部への仲介業者としてのヤクザの大きな役割について詳述して見せています。
これを読むと、まさに仲介業者=ヤクザの<社会的貢献>の度合いが非常に大きなものであったのだなぁという印象を強く持つほどです。
日本の近現代史をヤクザの活動を通してみるという本書の試みは、大変興味深いものであり、読んで損はない一冊だといえます。
