過酷な状況のなかでどう生きるか
心理学者であり、医師であるフランクルが、ユダヤ人強制収容所で過ごした日々の体験記。読んでいて、涙が止まらなかった。被収容者は、モノ同然に扱われ、毎日過酷な労働を強制される。少しでも監視兵の目にとまるようなことをすれば、酷い暴力をふるわれる。「弱々しく」見える者は、労働力として価値がないものとみなされ、ガス室送りになる。一日に食べることが出来るものといえば、ほんのひとかけらのパンと、水のようなスープだけ。その食事を、どれだけ待ち望んで一日の労働に耐えることか。食物を手に入れるために、人を欺いたり駆け引きしたり、時には盗みを働く。収容所に連れてこられた当初は、楽観的に構えていた仲間たちも、次第に何も感じる事ができなくなり、人間らしさを失っていく。一番重要に考えることといったら、どうやって与えられたパンを、長持ちさせて食べることができるか、、、。
だが、このような劣悪な環境に置かれていても、精神的に益々研ぎ澄まされていく人たちもいた。彼らは、愛する人のことを心に思い浮かべる事で、心が揺さぶられ、満たされ、至福を感じた。美しい夕日を目にすることがあれば、感動し涙を流した。あまりにも自分達が置かれている状況とはかけ離れたところにある、生命力に満ちた自然を感じることで、生きているという感覚が呼び覚まされたのだ。
どのような状況下にあっても、人間は人間らしく生きることができる。どんな人間になるのか決める事ができるのは、自分自身だ。たとえ、抑圧を受け、尊厳や自由を奪われたとしても、精神の自由は誰にも奪う事が出来ない。ドフトエフスキーの「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ。」という引用が、印象に残った。
名著の新訳には、つねに大きな期待と幾分かの不安がつきまとう。訳者や版元の重圧も察するにあまりあるが、その緊張感と真摯さのためか、多くの場合成功を収めているように思われる。本書もまた、その列に加わるものであろう。 ユダヤ人精神分析学者がみずからのナチス強制収容所体験をつづった本書は、わが国でも1956年の初版以来、すでに古典として読みつがれている。著者は悪名高いアウシュビッツとその支所に収容されるが、想像も及ばぬ苛酷な環境を生き抜き、ついに解放される。家族は収容所で命を落とし、たった1人残されての生還だったという。 このような経験は、残念ながらあの時代と地域ではけっして珍しいものではない。収容所の体験記も、大戦後には数多く発表されている。その中にあって、なぜ本書が半世紀以上を経て、なお生命を保っているのだろうか。今回はじめて手にした読者は、深い詠嘆とともにその理由を感得するはずである。 著者は学者らしい観察眼で、極限におかれた人々の心理状態を分析する。なぜ監督官たちは人間を虫けらのように扱って平気でいられるのか、被収容者たちはどうやって精神の平衡を保ち、または崩壊させてゆくのか。こうした問いを突きつめてゆくうち、著者の思索は人間存在そのものにまで及ぶ。というよりも、むしろ人間を解き明かすために収容所という舞台を借りているとさえ思えるほど、その洞察は深遠にして哲学的である。「生きることからなにを期待するかではなく、……生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題」というような忘れがたい一節が、新しくみずみずしい日本語となって、随所に光をおびている。本書の読後感は一手記のそれではなく、すぐれた文学や哲学書のものであろう。 今回の底本には、旧版に比べてさまざまな変更点や相違が見られるという。それには1人の哲学者と彼を取り巻く世界の変化が反映されている。一度、双方を読み比べてみることをすすめたい。それだけの価値ある書物である。 (大滝浩太郎)
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